NPO日本移植支援協会

専門家の意見

鈴木 康之 先生

国立成育医療研究センター病院
手術集中治療部
(平成19年)
鈴木 康之 先生

<私と移植医療のつながり>

私が移植医療のことを真剣に考え始めたのは1997年1月に国立小児病院のICUに入室した拡張型心筋症の5歳の利奈ちゃんとの出会いでした。利奈ちゃんは徐々に悪化する心不全の治療のためにICUに入室しました。利奈ちゃんは心不全からくる倦怠感と肺うっ血による息苦しさに必死に耐えていました。

それを少しでも楽にしようと我々は強心剤や利尿剤の治療をほどこしましたが、なかなか効を奏してくれません。父親が娘の渡航移植を苦渋の決断した時には、すでに残された時間はごくわずかで、とても間に合う状況ではありませんでした。病状は末期で徐々に悪化し、ICU入室後数日で永眠されました。苦しいと訴えていた利奈ちゃんの姿と移植に踏み切るのが遅かったと悔いる父親の涙を今も忘れることはありません。

その利奈ちゃんとほぼ同時期に拘束型心筋症の5歳のM君が心不全症状の悪化でICUに入室しました。M君は我々の治療が効を奏し、心不全が軽快し、比較的良い状態で渡航移植の準備ができ、渡米することになりました。M君はロサンゼルス渡航後に心臓移植待機患者となり、UCLAで第一回目の心臓移植を受けましたが、突然移植心臓が機能しなくなるという不幸に見舞われました。しかしECMO(人工心肺装置)を装着してICUで約1ヶ月待機しながら再度臓器提供があるのを待ち、再移植を受け、10数回の手術の末、無事帰国を果たすことができました。今も元気に我々の病院に通院し、今年でもう移植後11年となります。

早くから移植を考えたM君は元気に帰国し、利奈ちゃんはICUでなす術もなく、息絶えるという明暗を分けた2名の患者の経験から、私にとっては移植という素晴らしい医療への迷いはなくなりました。私は子どもの心臓移植後の5年生存率80%という数字に興奮し、数千万円や億をこえる多額な医療費や異国の地で治療を受けなければならないという障壁はたいしたことではないと考え、移植医療に対して信頼と期待をし、努力を惜しまない決意をしました。

その数ヶ月後の1997年3月に関わったのが美佑紀ちゃんで、私が最も苦労した患者さんの1人でした。美佑紀ちゃんは当時8歳の可愛い女の子で、出生直後に先天性心疾患の診断で手術を受け、その後元気に成長しましたが、大動脈弁閉鎖不全症の手術を受けました。その術後から心機能低下が著しく、余命数ヶ月と循環器科の百々先生から宣告されました。

両親が渡航移植を決断し、準備をしている最中にも美佑紀ちゃんの状態は徐々に悪化し、ICUに入室となり、渡米を予定していた1週間前に人工呼吸器が必要となりました。これでもう渡米は無理かと私は思いましたが、人工呼吸管理を開始してから渡米できるぎりぎりの状態まで安定しました。そうは言っても人工呼吸器管理と4台のシリンジポンプで4種類の強心剤を投与しているような重症な循環不全状態でした。

その状態で循環器科の百々先生、麻酔科は宮坂先生と私と、看護師は小児病院OGの安行さんと武内さんの5人で心臓移植患者搬送医療チームをつくり、UCLAへJAL定期便で搬送をおこないました。渡米の直前2週間は渡米の準備や航空機搬送のJALとの打ち合わせの他、マスコミの対応など大変忙しく、直前の7日間は1日12時間以上をそのことに費やし、他の仕事は全く手につかない状況でした。1日に何回もマスコミから電話があり、その対応にも苦慮いたしました。

無事に渡米した美佑紀ちゃんは当然重症患者としてUCLAの心臓ICUに直接入院し、移植のリストの一番に載りましたが、長時間の搬送の影響もあり、状態がさらに悪化し、UCLAでの集中治療もむなしく待機中に死亡、生きて日本の地を再度踏むことはなく棺での帰国となりました。移植医療の中でも渡航移植というかなり困難な道を登りつめ、UCLAまで到達しましたが、最後のハードルを乗り越えることができない悔しさを痛感しました。

ちょうどそのころ日本では臓器移植法案(中山案)が衆議院で審議され、日本でも臓器移植医療が29年間の闇をくぐり抜け、少し明るい兆しが見えてきたこところでした。渡米直前に母親の多恵子さんから、「法律ができたら、美佑紀は渡米しなくても良いの?」という質問があり、「美佑紀ちゃんは間に合わないけど、きっともうすぐ日本でも心臓移植で子どもが助かるようになると思うよ。」と返答した記憶があります。美佑紀ちゃんが亡くなって半年後の1997年10月に法律は施行されましたが、実際は15歳未満の臓器提供は不可能ですし、生前の本人の意思表示がなければ脳死からの臓器提供はできないという厳しい制限のある法律です。

その後も私たちは思い悩んで渡航移植を決断してきた何組かのご両親のために、できる限りの努力を惜しまず誠心誠意手助けをしてきました。渡米するまでにこどもの状態は徐々に落ち込みます。そのたびに子供をより良い状態に保つため、ICUでの治療をおこない、また搬送の準備、長時間におよぶ搬送のための搬送チームをつくり、搬送機材の手配や移植患者受け入れ施設とのやり取りをおこない、まさに時間との戦いでした。

医療面では患者さんができるだけ安定した状況で搬送できるように、また不測の事態にも対応できるように医師3名看護師2名以上の搬送チームによる航空機搬送を計画しました。また精神面でのサポートとして、渡航先の地元ボランティアの方々やすでに渡航移植を終えた患者さんを紹介したりし、慣れない異国の地での闘病生活を少しでも楽にしてもらうようなサポートも惜しみませんでした。

そうこうしているうちに心筋症の小児患者さんが他院からも紹介されるようになり、短い時間を有効的に使って、過去の経験をもとに重症患者さんが渡航移植できるようなシステムを作成しました。私が最後に渡米搬送した患者さんは2003年11月の結菜ちゃんで、生後5ヵ月の小さい可愛いい赤ちゃんでしたが、例外なく重症で人工呼吸器と3種の強心剤治療をしながら渡米しました。残念ながらUCLAのICUで待機中に重症感染症のため移植リストからはずれ、その後亡くなられたという痛恨の患者さんです。

私は今まで移植医療を通して多くのことを子どもたちやご両親や周囲の方々から学び、かけがえのない物や友人を得ました。亡くなられた患者さんの家族とは友人としての付き合いを続けています。また美佑紀ちゃんの渡航移植のときに成田までの搬送を自ら志願してくれた救命士の水野さんとは親交を深め、今は難病のこどもたちのサマーキャンプに毎年ボランティアとして参加していただき、子どもや家族のサポートをしていただいています。その水野さんは現在最も経験豊富な重症患者の航空機搬送のことがわかる救命士さんです。

現在私の移植医療とのかかわりは、当院でおこなっている小児の生体肝臓移植がほとんどになりました。今は大変気が楽です。患者さんは体重が4kgしかない胆道閉鎖症の術後末期肝硬変で重症のこともあります。劇症肝炎ですぐに移植しなければ救命できないこともあります。それでも心臓移植の時ほど待ったなしといいうことはありません。なによりも国内で生体移植が可能なため渡航する必要もなく、健康保険で治療ができるので募金活動も不要です。本人やご家族の負担は著しく異なります。

許先生が移植医療以外の治療方法として長時間使用できる補助人工心臓の開発ことを記事に載せていましたが、私も同意見です。今後は人工臓器つまり人工心臓や再生医療といった新しい切り口の医療技術の発展が必要でしょう。近い将来小児の脳死患者からの臓器提供が認められたとしても、おそらく救命できるこどもの患者数は限られています。わが国のみではなく、世界的な移植臓器の不足は否めない現状です。

不全臓器を抱えて困っている小児患者の数と移植提供臓器数のアンバランスはわが国のみではなく世界中どこでも同じ傾向です。そのような現状では新しい方法を考えなければ、救命できる患者の数は増えないのは当然です。しかし、小児用の人工臓器も再生医療も確立するには何年もかかり、すぐには問題を解決してくれません。今現在どうしたら、一人でも小さい命を救うことができるかと考えると、やはり小児の脳死患者からの臓器提供の問題を早期に解決することが最優先でしょう。

Back