NPO日本移植支援協会

専門家の意見

百々 秀心 先生

筑波大学
消化器外科臓器移植外科
大河内 信弘 先生


2015年

肝移植雑感

三十年前の大学病院の一室。30歳になる胆道閉鎖症の患者が私にいいました。”僕はもうすぐ死ぬと思います。先生はこれからアメリカに肝移植の勉強に行くんですね。アメリカでは僕みたいに肝機能が悪くても肝移植をすれば働くことができるようになるのでしょうか。日本ではいつになったら移植ができるようになるのかなあ。” 彼は1歳の赤ちゃんと奥さんを残して半年後に肝不全で亡くなった。私はピッツバーグでスターツル教授、岩月助教授、エスキバル講師、マックォーカ先生、藤堂先生等の元で肝移植の勉強をさせていただいた。朝はラットや犬、豚を用いた動物実験から始まり、夕方は飛行機でドネーション、帰ってきてそのままレシピエント手術に入り翌日の夜にアパートに戻るという48時間で睡眠は6時間、週末の休みはなしという超ハードな生活であった。

クリスマスの時期はアメリカ人のスタッフは休みを取るため、5日間全く睡眠なしで手術に入り続けたこともあった。アメリカの医師は勤務時間をきちんと守り時間外勤務は行っておらず、日本のように患者のために自分を犠牲にしてまで医療行為を行うという姿勢は感じられなかった。したがって、手術時間が12時間~16時間の長時間であり、体力的にも精神的にも非常に疲れる肝移植手術はアメリカ人医師には人気が無く、移植手術を支える医師はフェローと呼ばれる日本、中国、中南米などの外国人医師であった。なかでも無報酬で一所懸命働くのは日本人と中国人だけでありヨーロッパや中南米の国と日本や中国との国民性の違いを肌で感じとるよい機会であった(日本人は働き過ぎ)。日本に戻ると脳死判定のガイドライン(竹内基準)は出されていたものの、社会における臓器移植に関する理解度は低かった。

そのため生体肝移植を安全に行うための豚を使った実験に日々明け暮れた。1991年に東北地方で初めて生体肝移植を行ったが、当時はいずれの施設も手術手技や免疫抑制剤の使い方などは手探りで行っていたので、患者さんも大変であったが医師も苦労の連続であった。1997年に臓器移植法が成立するまで、厚生労働省や日本移植学会から脳死肝移植は行わないよう求められていたため、生体肝移植を行えない肝移植が必要な患者さんにとっては大変つらい時期であった。現在、意思表示カードの所持率が10%を超え、脳死からの臓器提供者が年間50例と増加しており、着実に日本でも臓器移植が医療として社会に認知されつつあると感じる。諸外国に比べると、まだまだ少ない提供者数であるが、日本の移植成績は世界のトップレベルであり、移植医療の発展の余地は大きいと考える。

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