NPO日本移植支援協会

専門家の意見

中西 敏雄 先生

東京女子医科大学
循環器小児科教授
日本小児循環器学会理事
中西 敏雄 先生

 心臓移植は、患者さんの状態を驚異的に改善させる治療法なのですが、死亡した方から臓器提供を受けるしかありません。必然的に、死の定義が法律上必要となり、我が国でも死の定義に関して論議が交わされました。1992年の臨時脳死及び臓器移植調査会(脳死臨調)の答申では、一般的に脳死が死であるとされました。しかしその後、臓器提供の際に限って脳死を死とするという臓器移植法が制定され、1997年に施行されました。生前の臓器提供意思表示と家族の承諾のもとで、脳死下臓器提供が可能となりました。さらに2010年の法律改正では、家族の承諾のもとで15歳未満の小児からの脳死下臓器提供が可能となりました。今年は、臓器移植法が施行されてから20年、改正臓器移植法が施行されてから7年になります。  2010年の臓器移植法の改正の前には、2008年の国際移植学会で「移植が必要な患者の命は自国で救える努力をすること」という主旨のイスタンブール宣言がだされ、その影響もあっての臓器移植法の改正となりました。 15歳未満の小児からの臓器提供は形成臓器移植法が施行されて可能になったわけですが、それでも年間1−6人にとどまっています。そのうち心臓の移植は年間1−2人にとどまっているのが現状です。一方、心臓移植が必要な18歳未満の患者さんの数は, 日本小児循環器学会の調査によれば、年間約50人で、 年間10−20人の方が亡くなっています。  2015年からは、体格の小さな小児に使える体外式人工心臓(ベルリンハート)が保険適用され、我が国の正式な治療法として認められました。それまでは、体格の小さな小児では人工心臓ではなく、血液に酸素を供給する人工肺しか補助循環の方法がなかったので、移植までの待機期間が短く、助けることが困難な状況が多々ありました。ベルリンハートの保険適用で、移植までの待機期間が数週間から1年以上に延び、小児の重症心不全治療にひとつの光明をもたらしました。ただし、ベルリンハートを着けて年の単位で待機するのは我が国のみで、海外では数ヶ月のうちに心臓移植されるのが通常です。ベルリンハートを着けても、自己の心臓機能が回復しない限り、心臓移植しか助かる道はありません。ベルリンハートを着けて我が国で臓器提供を待つ選択をする方も少数おられますが、多くは海外渡航して移植を受ける道を選択されます。ベルリンハートを着けて渡航移植される患者さんは、約年間5人です。  我が国からの患者を受け入れてもらえる国は、米国、カナダのみです。それも年間枠が決まっているので、翌年枠まで待たなければいけない場合もあります。米国、カナダともに臓器提供の数は不足しています。日本人が優先されることはなく、おなじ待機リストに載るわけですが、米国、カナダの患者さんの中には、自分の待機順位が下がる場合もありえます。イスタンブール宣言を受けて改正された臓器移植法ですが、「移植が必要な患者の命は自国で救える」状況になっていないのが現状です。  心臓移植が必要な小児を我が国で救うことができるために何が必要なのでしょうか。まずは、我が国の小児の移植医療の必要性、重要性について、国民にひろく理解してもらうことだと思います。おそらく多くの方は、「移植が必要なことはわかった、病気の子どもはかわいそうだ、自分の家族が同じ病気になっても移植を受けさせたい。」と思われると思います。しかし、「でも自分の家族からの臓器提供はいやだ、海外に行って移植を受けてください、募金への寄付もします」と考えられる方も多いのではなかろうか。その時に、海外の移植を待っている子どもにも思いを馳せていただきたい。  死の定義に関しても、もう一度国民的な議論が必要ではないでしょうか?最近では、死の定義に関する議論も下火になり、「脳死は死である」という世界の多くの国々の定義についてもあまり語られなくなっている気がします。臓器移植法制定から20年が経過し、国民の意識も変わってきているかもしれません。私は、勤務する病院の近隣の小学校5−6年生を対象に、毎年、死とは何だろう、と考える「命の授業」を行っています。授業の後に書いてもらう作文から分析した結果では、?%が脳死は死、%が臓器提供をする、としていました。現在、全国の小児科医が学校に行って命の授業をするという働きかけをしています。  小児が不幸にして事故などで脳死状態であると推定される状況は、日本全国で発生しています。最大限の治療がなされるべきですが、それでも救えない状況もあります。その際に、臓器提供の道があることを家族に情報提供する社会環境を整える必要があります。その際、主治医とは別のコーディネーターなどが話をすべきです。社会環境の充実には具体的には、自治体のコーディネーターの充実、脳死判定体制整備、病院の手術室使用などの体制整備、保険医療による臓器提供への補助などがあげられます。ちなみに米国では、臓器提供の情報提供が義務化されており、違反すると重大な罰則が科されます。また我が国では、臓器提供の道があることを家族に情報提供する際に、事前に虐待がないことを証明することが前提になっています。虐待が無いことを完全に証明することは困難です。少なくともその情報などが無いことで虐待は無しとできるよう体制を早急に整えることが重要と考えます。  一日も早く、「移植が必要な患者の命は自国で救える」我が国が実現することを願っています。



UCLAとコロンビア大学と私

UCLA
アメリカ合衆国カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)には、1977年から1983年まで留学し、循環器小児科の研究を行った。当時はまだ心臓移植はUCLAではやっておらず、留学中に心臓外科にラクス教授がエール大学から赴任してきて心臓外科の手術が増えようとしていた時代であった。私は、胎児や新生児の心臓の筋肉の収縮の機能がどのようにして成人の心臓まで発達していくのか、微細構造や細胞内のイオン環境がどのように変化していくのか、といった基礎的な研究を行った。当時は他の施設ではそのような研究はあまりされていなかった。

直接の上司はジャーマカニ教授で、循環器小児科領域の心機能研究では著名な先生であった。当時は、UCLAの循環器小児科には5人の教授がいた。その中には未熟児の呼吸窮迫症候群の治療に肺サーファクタントを考案し開発したフォレスト アダムス教授や、新生児の動脈管を開いたままにしておくためのプロスタグランジンE1の使用を考えたウィリアム フリードマン教授などがいた。日本からも多くの留学生が循環器小児科にこられていた。

ジャーマカニ教授のお宅は、映画スターなどが多く住んでいるマリブ海岸の山手にある。地図上ではロサンゼルスの上の郊外の海沿いである。それほど大きな家ではないが、海を見渡せ、はるかサンタモニカ海岸沿いの市街地も見渡せる。オレンジの木や畑もあり、庭でビールを片手に安楽椅子にすわればリゾート気分である。昨年UCLAを訪問したときには、心臓移植を担当しているアレジォス先生に新しくなった病院を案内してもらった。移植担当の外科医、看護師、工学士のチームとも会った。

その後、ジャーマカニ教授を訪問したのであるが、彼は別の用事があり、夜遅く家に帰るとのこと、冷蔵庫に何かあるから勝手に料理をして食べろ、と言われた。鍵をあずかり、パシフィックコースト ハィウェイを北上して、彼の家にたどりついた。まだ日も高かったが、さっそくビールをついで、海を見ながらいっぱい始めた。飲んで食べて、しまいには椅子で眠ってしまった。夜奥さんと帰ってきた彼に起こされ、また一緒に飲んで、いろいろ話して、彼の家で一泊した。朝は彼の手料理を楽しんだ。日本では経験できないリラックスしたロサンゼルスの1}日であった。留学から帰国してかれこれ25年経つが、いまだにロサンゼルスは「我が青春の街」のような気がしている。

コロンビア大学
ニューヨークのコロンビア大学と東京女子医大とは留学生の交流があり、女子医大から毎年2-3人の学生がお世話になっている。昨年、日本からの小児の渡航心臓移植の打ち合わせに訪問した。ニューヨークも東京と同じように地下鉄が発達していて、東京の渋谷、銀座といった特徴ある街がニューヨークにもある。寿司もおいしいし、ミュージカルもありで、何時行っても飽きることはない。数年前までは、私の親友がニューヨーク大学病院にいて、彼の高層ビルの最上階にある家を訪問していたものであるが、最近アイオワ小児病院の院長になって去ってしまった。

コロンビア大学プレスビィテリアン病院は、「世界のメディカルセンター」と自称し、全米で最良の病院にランクされている。ヤンキースの松井選手が手首をけがしたときに手術を受けた病院である。コロンビア大学プレスビィテリアン病院のなかにモルガンースタンレィ 小児病院がある。モルガンースタンレィ の名前は、この証券会社の社員が寄付を募って寄付した故に付けられた名前である。このようにアメリカの病院にはよく大口寄付者の名前が付いている。ちなみには、UCLAは、全体がロナルド レーガン病院、小児病棟はおもちゃの会社の名前で、マテル小児病院と呼ばれている。

心臓外科のチーフはドクター・クゥエゲビゥアで、発音しにくいので、病院のスタッフはDr.Qと読んでいる。彼はオランダのライデン大学病院で新生児大血管転換症の手術のすばらしい成績を挙げたことがきっかけになり、コロンビア大学に招請された心臓外科医である。心臓外科のスタッフは彼を含め3人で、あとはフェロー、レジデントが数名ずついる。病棟を見て回ったが、小児病院200ベッドの内100ベッドが集中治療室ICUである。小児科に60人のレジデント、76人のフェローがおり、年間50000人の救急患者をみるという。新生児ICUは50ベッドで、新生児の手術後にはそのICUに帰ってくる。

ひろびろとしたフロアーにぽつぽつと保育器インキュベーターが置かれている感じである。インキュベーターの横には親が泊まれるソファーベッドがある。 新生児以外の小児は小児ICUか小児科一般病棟に入院する。原則的に病室は個室で、少数の病室が4人部屋、2人部屋である。ちなみに差額ベッドはなく、すべて同じ料金である。どの部屋も親が泊まれるようになっている。小児ICUは、循環器疾患であれば、循環器小児科医が患者をみて、人工肺(ECMO)や補助循環装置(LVAD)が付けば、工学士が巡回する。入院費用は高額でICU一泊が6000ドル位(60万円)とのことであった。アメリカの小児病院では医療費が払えない患者さんもいるし、多数のスタッフも雇用されて人件費もかさむが、多方面からの大口、小口の寄付で助けられている。

循環器小児科のチーフはドクター・ウィリアム (縮めてビル)ヘレンブランド で、私の長年の知り合いで、夕食を含め温かいもてなしを受けた。昨年にはラスベガスで先天性心疾患のカテーテル治療の学会があり、彼が私を司会者のひとりとして招待してくれていた。彼から、循環器小児科のスタッフを紹介してもらい、各部門の説明を受けた。エコーやMRIの責任者はドクター・ウィマン ライで、最近ニューヨーク マウント サイナイ病院から移ってきた若い医師である。

循環器小児科エコーに携わる専属医師はなんと9人いて、さらに9人の技師がいる。年間10000}件のエコー、868の胎児心エコー、350のMRIをとるとのこと。胎児エコーの責任者は、ドクター・チャールズ クレイマンで、著名な方で、自身も心臓移植を受けていながら、現役で働いている。カテーテルのスタッフは3人で、ドクター・ヘレンブランドとジュリィ ヴィンセントとあと1人である。3人で年間1300件のカテーテルをこなしている。心筋症、心不全、心移植の責任者はドクター・リンダ アドニジオで、優しいベテランの女医さんである。

なんと循環器小児科のスタッフは常勤48人で、その他フェロー(日本の後期研修くらい)が18人いる。(レジデントは含まないで)常勤医師が66人循環器小児科にいることになる。その他、看護師はもちろんだが、nurse practitionerといって、医師とほとんど変わらない技能をもつ(例えば循環器に特化した)看護師もいる。移植後の患者さんはこのnurse practitionerに非常にお世話になる。医者以上に1:1の関係でつきあってくれる。

このめぐまれた陣容で循環器小児科、小児心臓外科部門が構成されている。週に一回は全員集合してカンファレンスを開き、1人1人の患者さんについて討議する。主治医と話していると、一人一人の患者さんのことをよく覚えていて、多くの患者さんをかかえているにもかかわらず、患者さんを大事にしている様子がよく感じられる。振り返って、我が東京女子医大循環器小児科のレベルは、少ないスタッフ数にもかかわらず、決してニューヨーク プレスビィテリアン 病院循環器小児科に劣っていないと感じた。患者さんの数の差はあるが、誇りをもって、世界一流のレベルであると言える。ただ小児の脳死心臓移植は我が国ではまだできない。一日も早く法律が改正されることを望むものである。

Back